年月日 | 年齢 | 出来事 |
1910年 1月23日 |
0歳 | ベルギー南西部エノー州・リベルシェ郊外にて、キャラバンの中で、マヌーシュ・ジプシーとして生を受ける。 戸籍上の名前は、「ジャン・ラインハルト」。 ロマニー語(ロマ語とも称される、ジプシーの言語) の名前は、「ジャンゴ」。 |
1910年 1月24日 |
出生証明書の作成 | |
1912年 3月1日 |
2歳 | 両親の第2子となる、弟が誕生。 名は、「ジョセフ・ラインハルト」、ジプシー名は、 「ニンニン」。 |
1915年 | 5歳 | 父、ジャン=ウジェーヌが蒸発。 以降、母・ネグロスによって育てられる。 |
1920年 | 10歳 | ネグロス一家は、放浪生活をやめ、パリ近郊に在住。 学校には行かず、ギャング団のリーダー格となり、盗みや暴力、また、ゲームとギャンブルに夢中の毎日を送る中、従兄弟のガブルエルが、ボコボコのバンジョーを弾いている姿を見て、バンジョーの調べに魅了。 バンジョーを日に日に上達していく様子を見た母・ネグロスはバンジョーを買い与え、やがてガブリエルと二人で、街角で演奏し始めるようになる。 |
1922年 | 12歳 | 普通の弾き方よりも、素早く弦をかき鳴らせるバンジョーの奏法を身につけ、弟・ニンニンは、やがて何年もの間伴奏者として兄に仕える任務を この頃から引き受けるようになる。 パリのありとあらゆるダンスホールで、アコーディオンを弾くイタリア系ジプシー、ヴェテース・ゲリーノに、一晩10フランの高給で雇われ、伴奏者としてバンジョー弾きを務めるようになり、時には、一家の大黒柱として家計を支えた。 ゲリーノのそばで演奏した後、上流階級のパリジャン・モーリス・アレクサンダーにスカウトされる。しかし、型にはまったアコーディオン奏者だった ため、すぐに彼のもとを離れる。 |
1925年 | 15歳 | 14歳のマヌーシュの少女、ソフィー・イルマ・ツィグラー、 ジプシー名・ナギーヌと出会う。 |
1926年 | 16歳 | ジプシーではないが、ジプシーの集落に混じり、 キャラバンに住むスイス生まれ、イタリア系の アコーディオン奏者、フレード・ガルドーニの 伴奏者となる。 ここにも定着せず、すぐに、オ-ヴェルニュ生まれ のアコーディオン奏者、ジャン・ヴェサードの バンドに移る。 新しいサウンドに遭遇する。 人々は、この音楽を「ジャズ」と呼び、当時は 耳慣れない外国語だったが、、まもなく世界中に 広がってゆく。 |
1927年 | 17歳 | ナギーヌを捨て、フロリーヌ・マイエール、 ジプシー名・ベラと家出結婚。まもなくベラは 妊娠する。 |
1928年 6月20日 |
18歳 | ヴェザードのアコーディオン、ジャンゴのバンジョー そしてスライドの一種であるジャズフルートの 3つの組み合わせが、最初期のセッションとして 明らかになっている。 年齢にそぐわない力量と押しの強さを発揮する。 |
1928年 8月 |
アコーディオン奏者、マルソー・ヴェルシュランの F・アンリ・レーベルでのレコーディングに参加。 |
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1928年 10月 |
イギリス人で、ヨーロッパでは非常に有名な、 シンフォニック・ジャズ・オーケストラの指揮者。 ジャック・ヒルトンが、オーケストラ入団の誘いに 訪れ、翌日に契約。 |
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1928年 10月26日 |
自身の不注意から、住んでいたキャラバンに火災 を引き起こし、回復に時間を要するも、左手の小指 と薬指の機能を失う。 |
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1928年 11月16日 |
ベラとの間に、男児を出産。 ベラの父親の名前にちなみ、マンリと名付ける。 「熊の子」を意味する「ルルソン」という愛称をつけ たが、「ルソン」という呼び名に変わっていく。 数ヶ月後、ベラと離婚。 |
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1930年 | 20歳 | 退院。以前の恋人、ナギーヌと再会。 バンジョーを持って、街をさまよい、カフェで演奏しては、小銭を稼ぐ日々を過ごす。 |
1931年 | 21歳 | 以降数年間、春から夏にかけては地中海で過ごし秋になると、パリに戻りナイトクラブで仕事をするパターンの生活を繰り返すようになる。 のちに、もっとも重要な音楽的パートナーとなる、 運命の3人のジプシー、 ピエール・ジョセフ・”バロ”・フェレ、 弟のジャン・”マテロ”・フェレ、 エチエンス・”サラーヌ”・フェレの3兄弟と出会う。 |
1933年 | 23歳 | バロ・フェレのギターを支える奏者として録音。 |
1934年 | 24歳 | お洒落なクラリッジ・ホテルのティーダンスで、 金持ちらと有名人を相手に演奏。 ステファン・グラッペリと再会。 ジャンゴ、ステファン、ギターのシャピュとベースのヴォラ、リズムギターとして弟のニンニンの5人でメンバーを結成。 |
1934年 12月27日 |
バンドとして初めての「ギャラの出る録音」に出発。 このレコード・デビューは、人生最大の転換点となる。 |
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1935年 2月16日 |
25歳 | バンド名「ジャンゴ・ラインハルトとクインテット・デュ・オット・クラブ・ド・フランス-ステファン・グラッペリ参加」とポスター掲載。 |
1935年 2月20日 |
クインテットが集まり、パリ以外の場所での初ライブに出演 | |
1935年 3月6日 |
ウルトラフォン・レーベルから出た最初のレコードの 売れ行きがよく、二度目のレコーディングが行われる。 |
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1935年 4月 |
ウルトラフォン・スタジオにて、4曲を完成。 | |
1935年 9月 |
ウルトラフォンとの契約を終了。複数のレーベルで好きなだけレコーディングを行えるようになる。 | |
1937年 | 27歳 | パリの花形スターになり一様に彼の音楽を讃えた。 レコードは、フランス、イギリス、日本、そして、 アメリカでも発表されるようになる。 |
1937年 7月 |
ジャンゴとクインテットは、2回目の国外ツアーに出発。 | |
1937年 11月25日 |
ジャンゴとクインテットは、「ヴィバーズ・ドリーム」という曲を録音。 この秋、ジャンゴは短調による代表作を2曲録音。 |
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1938年 1月31日 |
28歳 | ロンドンで12曲余りを録音。 |
1938年 7月 |
本格的にイギリス全土を巡る初ツアーを開始。 10月までほぼ4ヶ月続く。 この年、自作のワルツが、ジタンのダンスホール・ ギタートリオ、ル・トリオ・フェレというグループによって録音され現在に伝わっている。 |
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1939年 2月 |
29歳 | 初のスカンジナヴィア・ツアーに出発。 |
1939年 7月 |
ジャンゴ・ナギース・クインテットは、3度目のイギリスツアーに出発。以降、事実上のステファンの脱退勧告により、クインテットは解散となる。 | |
1944年 6月8日 |
34歳 | ナギーヌとの初めての子供を出産。 ジョン=ジャックと名づけ、「シアンシアン」と呼び、のちには、”パビク”という愛称をつける。 |
1945年 1月6日 |
35歳 | すべてのナイトクラブが閉鎖。キャバレーでの仕事がまったくなくなる。 同年、春~夏、軍キャンプでの演奏活動を行って いる間、もうひとつの米陸軍オーケストラと出会う。 |
1945年 | 同年、冬、ATC楽団のメンバーとともに演奏。 | |
1945年 12月1日 |
フランコ・アメリカン・カルテットと名づけられ、 より大規模な楽団からリズム・セクションの3人を 選んで、彼らとともに、AFNスタジオでの録音を行う。 ジャンゴが人々の前で演奏したコンサートは、数えるほどだったが、この年に行った、レコーディング・セッションと同様。ジャンゴの音楽は、ほとんどすべてが、ラジオを通じて合衆国に住むアメリカ人のために演奏したものだった。 |
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1946年 1月1日 |
36歳 | 興行主・ドローネによって、EMIのアビーロード・スタジオでのレコーディング・セッションを設定。ジャンゴ、ステファンと、ステファンが何人かのミュージシャンをかき集めて、 「ジャンゴ・ラインハルトとル・クインテット・デュ・オット・クラブ」と名づける。 |
1946年 2月11日 |
喉の腫瘍が急に悪化。「イギリス版クインテット」の 夢も実現不可能となり、フランスに帰国。 同年、春、ル・ロデオという小さなキャバレーで 勤め口をみつけ、契約期間中、肩書きの上で マネージャーとなる。 その後、いくつかの仕事をみつけ、コンサートや レコーディングセッションを行う。 同年、ナギーヌとの間に第2子の男児が誕生。 ジミーと名づけるが、生後数週間で障害者小児科 病院で息を引きとる。 嘆き悲しむあまり、音楽に背を向ける。 |
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1946年 10月29日 |
初めてアメリカ合衆国に足を踏み入れる。 以降、1947年にかけてのアメリカツアーは、 彼の人生における転換点となる。 |
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1946年 11月4日 |
オハイオ州クリーヴランドでツアー初日を迎える。 | |
1946年 11月23日 11月24日 |
アメリカでもっとも格調高い、ニューヨーク・カーネギー・ホールでの2回公演を迎える。 絶賛と全否定という相反する批評を受ける。 |
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1946年 12月7日 |
デトロイト公演でフィナーレを迎える。 最終的に21都市・1ヶ月もの長期におよぶ演奏旅行であった。 |
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1947年 | 37歳 | 冬、パリに住み、以前と変わらぬカフェやキャバレーに通う毎日を過ごす。 |
1947年 3月6日 |
「屋根の上の牛」での2ヶ月にわたる公演が始まる。 | |
1947年 7月6日 |
テクニソナー:・スタジオという小規模なスタジオで ブルースターレーベルのための最初のセッションを録音。 同中旬、スデュー、ドラマーのジャック・マルティン、 ピアノにエディ・ペルナールという布陣のアンサン ブルを結成。 同、秋、ジャンゴと、ヌーヴォー・クインテットが、 これまでになく活発なレコーディングを行う。 |
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1948年 3月10日 |
38歳 | ドローネは、ジャンゴとステファンをスタジオ・ペルーズに招く。 2人組のバックを務めたのは、2人のリズム・ポンプ係、ニンニンとシャレン・フェレ、そしてベースにスデューという面々。 |
1948年 11月22日 |
ブリュッセルで歌手のジョルジュ・アルマーとの競演のヴァラ・エティ・ショーを行うため、 ヌーヴォー・クインテットの編成を変更。 |
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1950年 | 40歳 | 春、オープン・ゲートでのジャンゴと、サックス奏者のアンドレ・エキアンの公演が始まる。 |
1951年 | 41歳 | 秋、再びパリを発つ。サモア=フュル=セーヌという小さな村にたどり着く。 |
1953年 1月 |
43歳 | パリのクラブ「リングサイド」での公演のため、サモアを離れる。 |
1953年 4月8日 |
デッカとの第4弾となる、レコーディング・セッションを行う。 | |
1953年 5月16日 |
友人、フェルナン・ロワジーが経営する、 オペールジュ・ド・リルで突然倒れ、 再び意識を取り戻すことなく、午後4時に息を引きとる。 享年43歳。 |
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1953年 5月19日 |
ジャンゴの遺体は、彼の家から出棺され、サモアの教会にて葬礼が行われる。 |