Manouche JAZZ for JAPAN

マヌーシュジャズ for JAPAN

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Django Reinhardt ジャンゴラインハルト

ジャンゴラインハルト
Django Reinhardt 1910年1月23日 – 1953年5月16日
ロマ音楽とスウィング・ジャズを融合させたマヌーシュ・ジャズ(又はマヌーシュ・スウィング・ジプシースウィング)の創始者として知られる。また、しばしば「ヨーロッパ初の偉大なジャズ・ミュージシャン」とも評される。後世のミュージシャンに多大な影響を与える多くの傑作を、その短い生涯の中で幾つも発表した。左手のフィンガリングは、メロディを弾く時は主に人差し指と中指で弦を押さえ、コードを弾く時は、曲がったまま麻痺した薬指と小指で高音弦を押さえることもあった。

マヌーシュの旅回り芸人の息子で、パリ郊外のジプシー居住区で育った。12歳でギターを手に入れる。独学で練習、短期間で上達、13歳になる前にアコーディオン奏者の伴奏者としてダンスホールで働き出す。当時のパリで流行していたアコーディオンを中心としたダンス音楽ミュゼットを演奏していた。

1928年11月2日、18歳の時に住まいのキャラヴァン(移動式住宅)が火事に遭ってしまい、左手の薬指と小指の2本が動かなくなってしまう。しかし、ジャンゴは努力を重ね、人差し指と中指だけの独得な運指で流麗なソロを弾けるようになる。ジャンゴが「マヌーシュ・スウィング」を完成させたのは、34年にパリ生まれのジャズ・ヴァイオリン奏者ステファン・グラッペリと組んだフランス・ホット・クラブ五重奏団との演奏だった。

主役の2人をリズム・ギター2本とベースがサポートし、軽快にスウィングするというものであった。 このフランス・ホット・クラブ五重奏団との活動によって、ジャンゴは世界的に名を知られ、フランスを訪問した本場アメリカのジャズ・ミュージシャンが彼との共演を望んだ。

第2次大戦が始まると、グラッペリがロンドンに住むことを選び、ジャンゴはフランスに留まったために、オリジナルの五重奏団は解散するが、ジャンゴはグラッペリの代わりにクラリネット奏者を加えた新しい五重奏団を結成し、活動を続けた。

大戦後の46年にはデューク・エリントンに招かれ渡米し、彼のバンドの客演ソロ奏者として全米各地で演奏を行なう。しかし、ニューヨークのカーネギーホールでの最終公演で、自分の出番に30分も遅刻をするという失態をしてしまい、記者や評論家から良い評価が得られずじまいだった。帰国後はパリ郊外のサモアに住み、演奏活動を続け、時折旧友グラッペリとも共演したが、53年に41歳の若さで急逝した。


私たちと同じく
君に王はいない
規則もない
だが君には愛人がいる
音楽という名の

マヌーシュの詩人
サンドラ・ジャイア Sandra Jayat


ジャンゴは人の姿を借りた音楽そのものだ

エマニュエル・スデュー



■その他動画リンク

◆Django Legacy
Reinhardt(ジャンゴ・ラインハルト)の生涯をみつめた、1992年、John Jeremy(ジョン・ジェレミー)氏によるドキュメンタリー映画。

◆Django Music